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by exsaito5
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明治天皇の側室がオレの母親の隣家に?

オレの母親の出生地は、現在の地名で言うと、東京都文京区本駒込だが、本当の地名で言うと、駒込浅嘉町(こまごめあさかちょう)である。いま流行のヤネセン、谷中・千駄木・根津でいうと、千駄木が隣町である。JRの駅で言うと田端とか西日暮里となる。


母親の家があったらしいところは、下の三つの地図の赤丸印のとこだ。左側の南北の大通りは現在の本郷通り。右上(北)に向かって斜めに通っているのが動坂通りである。
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上の地図は江戸時代の白山駒込あたりの古地図。goo地図がネットで公開していた。母親の実家は、徳源院の隣ということなので赤丸の辺だろう。百姓地、植木屋多し、と書いてある。母親のご先祖様は明治時代になって池袋のあたりから移住してきたと聞いている。


左上に大きな寺がある。吉祥寺である。もともと水道橋あたりにあった寺だが、江戸時代の大火で焼けてしまい、駒込に移転したようである。で、もともとの寺の門前町で商売をしたり、関係していた人々は新たに武蔵野の地に移住し、その地の名前を自分らが世話になった寺にちなんで吉祥寺という地名にしたらしい。そこが現在の中央線吉祥寺だ。だからそちらには吉祥寺という寺は無いはずだ。








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上の白黒写真はおそらく米軍が撮影したのだと思うが、昭和22年の空撮である。下のカラー写真は現在のグーグルマップの航空写真である。駐車場になっているが、道路付けや地形がわりと残っている。上の写真で、白っぽく霞がかかったようになっているところが、焼夷弾で焼け野原になった跡地である。黒々しているところが焼け残ったところである。寺の林などが防火林のようになって残ったのだろう。母親の家は白っぽくなっている。灰になってしまったということだ。母親が言うには1945年5月25日の大空襲で焼けたらしい。


空襲については、母親からはエピソードを一つ聞いている。3月10日の東京大空襲で下町を中心に焼けたその夜、母親の通っていた文京区千駄木小学校の生徒は栃木県那須に疎開に出た。大勢の小学生と先生が東北線の汽車に乗っていた。大宮あたりで先生達が心配そうに窓から顔を出し東京の方を振り返る。呆然としている。生徒達も次々に窓から顔を出し、東京の方角を見る。車内があっという間にざわざわしてきた。母親も見た。東京の空が真っ赤だったらしい。今日出てきたばかりの東京が燃えていたのだ。汽車は、はき出す蒸気に火の粉が混ざると敵機に狙われるので、時速10㎞程度の遅い速度で、走っては止まり走っては止まりの連続だったらしい。その時の空襲では自宅は焼けなかったが、5月25日の空襲で焼けてしまったということだった。



今日、母から聞いた話で、母親の育った家は、徳源院という寺の塀をへだてた東隣、狭くて短い道の突き当たりにあった本家とつながっていた、とわかったので、白黒の空撮写真を拡大してみた。すると、徳源院のすぐ東側にかすかに白く細い道が見え、突き当たっている。おそらく赤丸をつけたあたりに母親の家の本家と母の家があったのだろう。
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(注:地形は、母親が記憶を元に手書きしたものを参考にした。現在は屋敷や庭の跡形もなく、普通の住宅地であり全く別の方々が昔のことはおそらく知らずに静かに住まわれている。プライバシーには注意したい。母の本家は戦後土地は処分してしまっている)


さて、ここまでいたって個人的な駄文であったが、最後まで読んだくれた人にもっと面白い話しをお聞かせしよう。母親が言うには、母親の家の北隣には、明治天皇の側室が住んでいたのだ。上の地図に区割り想像図を描いてみた。

聞いた話を少し書いてみる。

母の家とその北側にある側室の家の境は竹垣で区切られていた。母の家の東には母の家とくっついて本家があり、竹垣も連続していた。本家の裏あたりの竹垣に、なぜか一つ小さな板戸があった。その板戸を開ければそのでっかい屋敷に入り込むことができたが、怖くて開けられなかった。それでも中が気になってしかたなく、いつも腕をその竹垣の上に乗せて背伸びして芝生の庭を覗いていた。毎日、着物を着たおばあさまが、大きな池の前で手をぱちぱちと叩く。すると何匹もの大きな錦鯉が寄ってきて、おばあさまが餌をまいていたのが見えた。

またある時は、道路をぐるっと回って東側の開いている門から庭に侵入、すると洋館の部屋から突き出た六角形の出窓風の窓には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、その部屋からポロンポロンとピアノの音が響いてきた。そのときは、庭師のおじさんに見つかったけど、こちらが小学1、2年生くらいの女の子だったからか、全然怒られなかった。それはそれは上流階級のでっかいお屋敷だったらしい。

なぜ、竹垣に板戸があったのか。母の話によると、その側室の家の庭には大きな防空壕があった。おそらく隣組の住民はいざとなったらその防空壕に避難できるような決まりになっていたのではないだろうか。その防空壕がすごい。庶民の防空壕は、せいぜい縁側の下を掘って家族が縮こまって入れるくらいの穴だった。ところがその側室の防空壕は、片側が階段、逆側はスロープだった。スロープのほうはリヤカーで高価な家具や衣服類を乗せて入れるためのものだったのだろうということだ。

しかし、このお屋敷は、オレの母の家、母の本家共々1945年5月25日の空襲でなんの跡形もなく焼けてしまった。ピアノもステンドグラスも焼けてしまっただろう。もしかしたら池の水は消火活動に使われたのかもしれない。防空壕は役に立ったのだろうか・・・・・。いろいろな思いが頭を駆けめぐる。


母親の本家は、動坂通りに面して3、4軒の店を貸していた。せんべい屋とかがあったらしい。本家そのものも畳屋をやっていて、この大通り沿いで畳屋を営んでいた。恩田という姓なので恩田畳店と呼んでいたのかもしれない。母親の父は普通の東京電力のサラリーマンであった。本家は徳源院の塀沿いにやはり3、4軒の借家を貸していて、その一番北に位置したのが分家であるオレの母親の家だった。

家の裏が明治天皇の側室の家だったという話は、ずいぶん前から母親には聞かされていた。でもまじめに調べたことはなかった。で、今日はじめて「明治天皇 側室」でググってみた。すると、明治天皇は正妻との間に子供ができなかったので、側室が5名いたようだ。そして、そのうちの一人、千種仁子(ちぐさことこ)という女性が千駄木林町の出身と書いてあるサイトがあった。そのサイトに、ある本が紹介されている。

以下引用

「歴史と旅・特集:明治天皇といふ人」(秋田書店2001年12月)なるムック本があります。この中に「明治天皇のお側の女性たち」(森まゆみ)という記事があり、千種任子についてこう書いてあります。(P67-71)
*「権典侍は、天皇の身の回りの世話、風呂での背中を流したりする役で、天皇の側室であり、化粧料150円が別に与えられた。千種任子(ちぐさ・ことこ)は(中略)のちに天皇の側に侍(はべ)り権典侍となったと思われる」
*「(明治天皇との間に、天皇から見て)三女・韻子<明治14年>と四女・章子<明治16年>を生んだが(中略)二人ともそれぞれ2歳1カ月、7カ月で相次いで夭折(ようせつ)している」
*「権典侍は基本的に天皇の側室なので、化粧料をもらってはいても、公の場には一切出られなかった」
*「千種任子は昭和19年、89歳で死去。(中略)明治天皇が逝ってから、千種任子は三十数年を一人生きざるを得なかった。まさに<未亡人>のひっそりとした暮らしであったろう。自分で生んだけれども育たなかった皇女たちのことなど、どんな想いがその胸に去来していただろう。千駄木林町の千種邸のあとは、今も国有地である(後略)」

引用終わり

最後の行に、「千駄木林町」とある。この地名は今は存在しないが、現在の千駄木5丁目、千駄木小学校のある一帯の、もともとお屋敷町らしい。
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とりあえずオレの母親の話は嘘じゃないと信じている。息子に嘘ついてもしょうがない。なので、駒込浅嘉町には明治天皇の側室が住んでいた、までは事実と思う。では、5名の内、誰がそこに住んでいたかとなるが、うち二名は昭和になる前に亡くなっているので、三名に絞られる。ほかには園祥子(そのさちこ)という女性と、柳原愛子(やなぎはらなるこ)という大正天皇を生んだ女性がいる。

オレの母親は1933年生まれ。仮にこの側室の屋敷から流れるピアノを聞いたのを4歳から10歳の間とすると、1937年から1943年頃となる。

千種仁子さんは、1855年生まれ1944年没。82歳から88歳でピアノを弾くかな????健康なら弾けるよな。彼女は小石川伝通院にお墓があるらしい。ソースはwikipediaなので、実際のところ行ってみないとわからない。この寺は駒込浅嘉町から直線距離で1.5km。本郷通りから白山通りに入りすぐである。お墓が近い、という事実は重要な補完情報となろう。


園祥子さんは、1867年生まれの1947年没。70歳から76歳でピアノを弾いていた?  これは普通にありえる。しかしこの方のお墓は新宿区西光庵にある。千駄木とは縁がないような気もする。


大正天皇を生んだ柳原愛子さん、1855年生まれ1943年没。 これは千種さんと近いが、この方は目黒の祐天寺にお墓がある。やはり駒込との縁が見つからない。


うーん、どうなんだろう。年齢的には一番若い園さんかもしれないし、けど、いい暮らしをしていたら80歳すぎてもピアノくらい普通に弾いてしまうかもしれない。あるいは、メイドさんが弾いていたとか、世話をする親族の方や兄弟姉妹が弾いていたのかも知れない。すると、さきほどの「千駄木林町」の出身だという情報があり、また、お墓が小石川伝通院にあるという千種仁子さんの可能性が高い。「千駄木林町」は、現在の地名で言うと千駄木5丁目であり、母親の通っていた千駄木小学校は、この千駄木5丁目にある。「駒込浅嘉町」の隣町であり、千駄木小学校は母の家から歩いてほんの5分の距離である。


オレの想像を書いておこう。

「千駄木林町(現在の千駄木5丁目)に千種家の本家があった。明治天皇の側室であった千種仁子(ちぐさことこ)さんは、お世継ぎを生む、という宮中での大事な宮仕えを終えた晩年、そのまま皇居にいるわけにもいかず、かといって千種家の本家に戻るわけにもいかず、皇室予算で実家近くの駒込浅嘉町に住宅を建ててもらい、分家として戻った。オレの母親の家の北隣に・・・」


江戸時代までは、天皇が側室を持ち、子供を産ませ、皇統をつなぐ、というのは普通だったらしい。ところが立憲君主の法治国家となった日本は、明治、大正、昭和となってくると、やはり正妻の子ということにしないと、世間体にしろ、国際的な印象にしろ、まずかったようだ。そこで、側室の情報は外には出なくなった。そのため、宮仕えを終えた後、いったいどんな人生をどこでどのように送ったか、という情報は消されてしまっているか、宮中に秘されているようである。また、宮中での公的な立場も「側室」ではなく「女官」であった。


この千種仁子さんは、明治天皇との間に二人の女の子を生んだ。しかし残念なことに一人は2歳のとき、一人はたった7ヶ月で無くなっている。結局男の子を生んだ側室柳原愛子さんの子供が大正天皇になった。オレは千種仁子さんの二人の女児の早すぎる死には、なにやら謎めいたものを感じる。他の側室の子供も死産とされている子供さんがとても多いし、無事成人した方は15人生まれたうちの5人だけと言うではないか。栄養や環境のいい宮中でそんなに子供さんが大勢が亡くなるだろうか。生きていたけど、亡くなったことにされていた、という可能性もある。あるいは・・・・・。ちなみに大正天皇を生んだ柳原愛子さんは、その我が子を抱くことは一度たりとも許されていなかった。まさに生んだだけ、ということだ。


オレの母親も、だいぶ高齢になってきた。こういう話しはどんどん聞いて、書き残していきたい。今の世の中なら別に天皇家の本当のことを書いても暗殺されたり、憲兵につかまって、拷問の末獄死とかはないだろう。歴史は書き残さないと無かったことになる。オレの母親が家の裏の側室の方の名前を覚えていたら、もっと貴重な情報だったのだが、全然覚えていないと。なぜか、友達の間でも、親との間でも、この隣家の話題は触れてはいけない、言いふらすとなにか恐ろしいことが起こる、という怖さがあったとのことだ。


一応とぼしい情報の中で、オレの頭の中では、まことに勝手ながら、駒込浅嘉町に住んでいた明治天皇側室は千種仁子(ちぐさことこ)さん、とさせてもらった。

※重ねて言うが、現在はこの周辺はここに書いた話と無関係の方々が、静かに居住しておられる。くれぐれもプライバシーを害すること無きようにお願いしたい。
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by exsaito5 | 2010-05-04 23:19 | 雑記